「ラジオから流れる落語を聞きながらだから気が散って…」
「だから俺、落語家になってから『無精床』ができなかった。あの小僧みたいにのべつ客の顔を傷つけてたからな。親父もあきらめて、落語家になるのを許してくれた。店の常連客に寄席の太神楽(曲芸)の鏡味小鉄さんが親類という人がいて、小鉄さんに頼んでくれた。入谷の小鉄さん宅を訪ねると、ちょうどラジオで落語をやってる。これが先代小さんの『粗忽長屋』だったのよ」
まさに運命の出会いである。
「小鉄さんは、『小さんはまだ若いし、将来名人になるだろう。協会の頭にもなる人だ。あたしはこの人を推すね』と言った。即『お願いします』と頼んだよ。それで目白の小さん宅へ連れてってもらって弟子入り志願したら、小さんも小鉄さん直々の紹介だから断れない。すんなり許されて、野田から通うのは無理なんで、内弟子にすると決まった。それが1956年の12月だ。19日が俺の17歳の誕生日なんで、その日から住み込むことにしてもらったわけよ」
芸名は本名の輝雄から光の一字を取って柳家小光。いよいよ前座修業が始まった。(つづく)
聞き手・吉川潮