曲がった膝が真っすぐになるよう、両親が毎晩優しく押してくれた
ランドセルも買ってもらい新1年生となり、しばらく小学校に通っていました。しかし、当時の主治医の「1年遅れても治療に専念するべきだ」との判断のもと、入学して数カ月で休学。1年間治療に専念しました。今のような効果のある抗リウマチ薬はなく、当時は筋注射が治療の中心でした。ガラスの注射器の時代です。しかしながら、さほどの治療効果も得られないままで、翌年、1年生として学校生活を再スタートさせました。2年の春、主治医の紹介で、米子にある鳥取大学付属病院に検査入院することになりました。治療の中心は、やはり筋注射。左右のお尻に代わる代わる打たれていました。
小児病棟では、幾多のドラマに接しました。毎日新生児が新生児室に運ばれてくる一方で、何人もの子供が旅立っていった。子供でもこんなに亡くなっていくことに驚きました。その中でも、たまたま同じ日に入院した、リウマチの女の子が亡くなった時のことは鮮明に覚えています。お父さんがタオルケットで体を包み、個室から出ていかれたことは当時の私には衝撃でした。
退院は半ば強引でした。長引く入院と、学習の遅れを子供ながらに心配してのことでした。その後寛解となり、楽しく学校生活を送っていましたが、小学5年の秋、突如再燃期に入り、リウマチと共存する生活が始まりました。