前相撲診療所長の林盈六さん 当時の条件は「大関待遇だった」
「オレの親父が相撲協会の健康保健組合の仕事をしてた元関脇の幡瀬川さんと親しくてね。その幡瀬川さんが東京オリンピックがあった昭和39年のある日、オレの先生に当たる東大の大島良雄教授に、オレを協会の診療所で働かせて欲しいと直談判しに来た。と、教授はオレに力士は短命と聞いてるが、長生きするように努力できるかと尋ねられ、ハイ、ガンバりますと答えたら、そのまま幡瀬川さんのハイヤーに乗せられ、蔵前国技館の双葉山理事長に挨拶に行った。即断即決だったよ」
ちなみに、林さんは「小学校5年の時、関脇双葉山が優勝した当時から毎日相撲を取ってた」ほどの相撲好き。東大から出向の形で相撲診療所に勤めたが、給与などの条件は「大関待遇だった」とか。相撲協会の期待のほどがわかろうというものだ。
「それまでの力士の健康診断といえば、レントゲンと小便を診るだけだった。ところが、昭和46年10月、横綱玉の海が盲腸の手術後、静脈に血の塊ができて急死したのがわかり、オレは当時の健康保健組合理事長だった二子山親方(初代横綱若乃花)に、健康診断に血液検査を導入することを提案したんだ」