投げて日本最速、15戦連続安打も 大谷“二刀流”進化の源泉
二刀流なんて野球をなめていると球界OBたちがこぞって猛反対する中、日本ハムは1年目から二刀流選手として起用、辛抱強く使い続けた。球団の方針は「ドラフトと育成」。球界の常識にとらわれず、若手を積極的に起用するためならトレードも辞さない。イキがよく素質ある選手が芽を出しやすい環境に身を置いたことは何より幸いした。
高校もしかりだ。大谷は高校進学に際して、神奈川の高校も含め4校くらいから誘いがあったにもかかわらず、選んだのは地元・岩手の花巻東だった。
最終的に本人の意思とはいえ、父親の徹さんは昨年の日刊ゲンダイ本紙連載「二刀流の血脈」でこう語っている。
<都会の学校は人数もたくさんいますし、埋もれてしまう可能性もある。中学のときにあれだけ打って活躍した子がなぜ、というのはこのあたりでもありますから>
中学時代に所属していた一関リトルシニアは人数自体少なく、全国大会にも行っていない。地方でも無名だったことに加え、性格もオレがオレがというタイプではない。授業中も指されればきちんと答えても、自分から積極的に手を挙げて発言する方ではなかった。徹さんはそういった本人の性格を考慮したからこそ、その他大勢として埋もれてしまう可能性を危惧したのだろう。