初賜杯が目前に 遅咲き玉鷲の相撲開眼までと師匠の教え
「若い頃から突き押しの力士だったが、いかんせん『ハマれば強い』程度だった。原因は熱くなりやすい性格。気合ばかり空回りして上半身がガチガチになり、さらに張られたらムキになって張り返すものだから脇があいて、簡単に差されていた。それがここ最近は熱くならないようにと心がけているようで、常に冷静。張り返さなくなって脇が締まるようになり、バランスのよい相撲を取れるようになった」
モンゴル人力士だが、先代師匠である片男波親方(元関脇玉ノ富士)から「仲間内でつるむと情がわく」と厳しくしつけられ、モンゴル閥とは距離を置いている。
さるタニマチ筋が言う。
「同郷の力士とは交流がないわけじゃないが、付き合い程度。彼らの互助組織であるモンゴル会にも入っていないと聞いている。もっとも、そんな浅い付き合いのおかげで命拾いしたこともある。それが17年の秋巡業中に起こった、いわゆる『日馬富士暴行事件』。玉鷲は当初、白鵬らに宴席に呼ばれていたんだが、『宿舎で見たいドラマがあるから行けない』と、これを拒否した。もし、あの場にいたら玉鷲も加害者のひとりとしてバッシングされていたかもしれない」
初賜杯に手が届くか。