PL学園や池田の誘いを断って鳴門高校優秀クラスへ進学する
いずれはプロが目標だったが、大学にも行きたかった。「徳島から東京六大学に行きたいなら鳴門高校」といわれていたこともあり、池渕と鳴門への進学を決意した。
■1時間かけて自転車通学で成績急降下
当時はそこそこ勉強もできた。1学年12クラス中、入学当初は今でいう進学クラスのような「優秀クラス」に入った。しかし、成績はほどなく急降下する。なにせ自宅から学校までは15キロも離れている。練習が終わる時間に電車は走っていないため、1時間ほどかけて自転車で通った。帰宅は夜11時を回り、翌朝6時には家を出発する生活。瞬く間に6番目のクラスに転落してしまった。見かねた私の親が学校近くにアパートを借りてくれたことで、2年生から下宿生活をすることになる。
2年秋の県大会を制し、明治神宮大会も準優勝だった鳴門は、看板の「うずしお打線」で1980年のセンバツに優勝候補として乗り込んだ。しかし、滝川(兵庫)の石本貴昭(元近鉄など)に0―1で完封され、初戦敗退。夏も出場したが、3回戦で優勝した横浜の愛甲猛(元ロッテなど)に0―1で完封された。それでも明治神宮大会、春夏の甲子園、さらに国体に出場。4大全国大会に出られたのはいい経験で、私の密かな自慢である。
何球団かプロのスカウトがあいさつに来てくれた。特に近鉄が熱心だったが、中学時代の恩師に「大学で木のバットに慣れてからプロを目指した方がいい」とアドバイスされ、大学進学を決意。早大に行きたかったが、「おまえは法政や」と当時の監督に言われ、前代未聞の“珍事”が起きる。