野口みずきは1年半でワコール退社し失業…資金難から出場した犬山ハーフをきっかけに開花
野口みずきが意外な才能を見せたのは失業中のことだ。
「おまえが何人か選手を募り、育て、うちから(全国)都道府県駅伝に代表を出し、京都を全国優勝させてくれ」
ワコールの塚本幸一社長(当時・後に会長)からこう言われたのが、同社の監督になったきっかけだった。
1983年に始まった全国都道府県対抗女子駅伝の舞台は、ワコールが本社を置く京都市。陸上に理解のある塚本会長は当初から京都代表をバックアップしていた。京都はワコールにチームが発足した翌年(88年)1月の第6回大会に優勝。約束を果たし、監督時代に京都は4連覇する。
第6回大会の後、塚本会長は「次は全国実業団(女子駅伝)でも勝て」というので、私はサバを読み、「3年ほどかかりますよ」と答えたが、運よく翌年から4連覇した。
当時のワコールは選手のスカウティングに1円のカネもモノも出さなかった。選手のスカウト資金を出さない代わりに、塚本会長に優秀な成績を収めたものには報奨金を出してもらった。