野口みずきは1年半でワコール退社し失業…資金難から出場した犬山ハーフをきっかけに開花
その会長が98年6月に亡くなると、私は7月に体罰問題を理由に監督を解任される。それ以前に、監督の私に何の相談もなく選手の移籍を勝手に決められてしまうなど、そのやり方に憤りを感じている時だった。
私は98年10月に退社。97年に入社した野口は私についてきたので1年半で失業。真木和、田村育子、コーチら数人のスタッフとともにハローワークに通い、私が次の所属先探しに奔走する中、失業保険の給付を受けながら生活していた。
ワコールの合宿を出た選手の生活拠点は団地だった。食事の準備、洗濯、掃除などすべて自分たちでやらなければならない。野口が自炊をしたり栄養について学んだのはこのときが初めてだったと思う。
野口は、99年3月にグローバリーへの所属が決まるまでの失業中の活動を、「チーム・ハローワーク」といって笑っているが、実業団時代がいかに恵まれていたかを実感し、「どんな形であれ給料をもらっている以上プロ」という意識を強く持ったという。
■「もしかしたら長い方が」