門井慶喜(作家)
3月×日 作家になって、直木賞をもらって、いろいろ出版社から本を送ってもらうようになったけれど、それでもやっぱり自分で見つけて買いに行くのは格別にたのしい。最近は高橋繁行著「土葬の村」(講談社 1000円+税)。新聞広告を見た瞬間、ピピッと脳内で電子音が鳴ったのだ。
開巻冒頭の一文は「この本はおそらく、現存する最後といっていい土葬の村の記録である」。全編をぴたりと要約して好奇心をそそる、ジャーナリズムのお手本だ。あっというまに読んでしまって、最初の感想は、
――土葬とは、何という豊かな文化なのだろう。
不適切な形容かもしれないが、とにかく細部がいきいきしているのだ。或る村では喪主夫人は着物の帯をうしろではなく前でむすぶ。或る村では死んだ年齢の高い者ほど山の奥に埋められる。それぞれに理由あるならわしなのである。
そうして何より、ことばの美しさ。或る村では山中の土葬地へ参ることを「花を折りに行く」という。或る村では棺をはこぶ手押し車を「輿車」と呼ぶ。こしぐるまと読むのだろう。そういえば、これは土葬にかぎらないが、そもそも遺体運搬の行列を「野辺送り」と呼ぶことがもう雅致のきわみではないか。
とにかくそういう土葬文化は、いま絶滅の危機にある。過疎化や葬儀会社の営業などにより、火葬に取って代わられたからだ。その意味でこの本は、土葬という風習そのものをねんごろに弔う哀惜の記録といえるかもしれない。著者自身の手になるらしい、各章トビラに掲げられた切り絵も素敵。
3月×日 庶民ばかりではない。明治天皇もまた土葬された。そのことを思い出して夏目漱石著「こころ」(新潮社 370円+税)を再読。主人公の「先生」がラストの手紙で天皇の崩御にふれ、「明治の精神」にふれるくだりは有名だが、葬り方にはふれていない。
「土葬の村」が物理の極とすれば、こっちは観念の極というわけか。時代の精神というものは、土でもなく、火でもなく、それこそ「ことば」で葬るしかないのかもしれない。