第一線に生き残る「昭和元年企業」の強さの秘密 決して順風満帆ではなかった“ド根性”時代
路面電車開通前は「旭川で若者が悪さをする」と反対運動
●旭川電気軌道
旭川電気軌道は旭川四条と東川町の約14キロを結ぶ路面電車。北海道に初めて誕生した「農村鉄道」だ。当時の移動手段は馬車や徒歩だったため路面電車の登場は旭川市民を喜ばせた。なにしろ旭川から東川町まで4時間かかるところが40分に短縮されたのだ。
「昭和2年の風景の絵を会社に飾っているのですが、道路はぬかるみ、もちろん舗装もされていません。当時、道行く人は荷車や大八車でモノを運んでいました。旭川と東川町を結んだのは東川の人たちの熱烈な要望があったからと聞いておりますが、当時は反対論もあったようです。その理由というのが、今となっては笑い話ですが、『旭川にすぐ行けると若者が悪さをする』というものでした。旭川は当時でも人口6万人を超す都会で、第7師団(現陸自旭川駐屯地)の兵隊さんでも大いに賑わっていたそうですから。とはいえ、人と農産物を運ぶ貴重な足として地元の人から長らく喜ばれてきました」(河西利記社長)
ところが、昭和30年代に入ると、旭川にもモータリゼーションの波が押し寄せてくる。
「当社はすでに昭和20年代後半にはバス路線への転換を始めていて、昭和31(1956)年に旭川市街軌道は廃線、昭和47(1972)年には東川線も運行終了となりました。廃線に最後まで反対されていたのが農協さんでしたね。廃線からもう50年以上が経ちましたが、いまだに『“あさでん”で高校まで毎日通っていた』と懐かしむ人がいます。そう考えると、地元の人たちに愛され続けてきたからこそ、100年近くも会社を続けられてこれたのだと思います」(河西社長)
いまだに電気軌道と名乗っているのも、地元に親しまれているからだ。