陸上・新宅雅也氏「出場していたらメダル取れていたかも」
この年、私と中村君は箱根駅伝で優勝。日体大を卒業し、SB食品に進みます。私は大学2年から陸連の欧州遠征メンバーに入ったものの、一時期、成績が伸びずフォームで悩んでいました。瀬古君の指導で帯同していた中村監督に相談したところ、「俺なら3カ月で直す」とはっきり言うのです。この人に指導を受けようと、その時決めました。
しかし、SB入りはすんなりとはいきませんでした。当時、中村監督は早大の監督も兼務し、瀬古君をマラソンのトップランナーに育て上げました。日体大は、箱根のライバル校を指導する中村監督がいるSB入りにいい顔をせず、揉めたのです。
私はトラックやマラソンでそれなりの結果を残し、カール・ルイスが4冠(100メートル、200メートル、4×100メートルリレー、走り幅跳び)を達成した84年ロス五輪(1万メートル)と88年ソウル五輪(マラソン)にも出場できました。日体大に反対されても、「中村監督の指導を受けたい」という、あの日の決断は間違ってはいなかった。そう断言できます。
■直前レースで金メダリストに勝利