<1>エースは故障を押し「いかせてください」と登板を直訴
「本人がどうしても投げたいと言うんです。でも、彼はこの大会で野球人生が終わるわけじゃない。ここで無理をさせてはダメだと感じました」
和田監督は一度は竹内をなだめたものの、その七回に1点を失って1―5、なおもピンチが続く時点で「八回の1イニング限定で登板許可を与えた」という。
■和田監督の原体験
和田監督は拓大紅陵から東洋大を経て、1992年のドラフト3位でロッテに入団。プロ10年間の通算成績は72試合で2勝3敗、防御率3・67。拓大紅陵時代は高橋憲幸(現日本ハムスカウト)と並ぶ2本柱も、肩の故障で3年夏の甲子園は投げられなかった。竹内の将来を考えたら無理はさせたくないが、投げないまま高校最後の大会が終わった投手の気持ちは痛いほど分かる……。
思えば、拓大紅陵に限らず、全国で行われた代替大会は無い無い尽くしだった。勝っても甲子園にいけるわけでもないし、そもそも声援を送ってくれる観客もいない。拓大紅陵は100人超の吹奏楽部の応援が名物だが、それもなかった。