阪神1位佐藤輝明 柳田2世を生んだ講道館杯優勝柔道家のDNA
佐藤輝明(三塁手・21歳・近大)=阪神1位
柳田2世、糸井2世と評価される佐藤は、関西学生野球リーグ新記録となる通算14本塁打をマークしたパワーとともに、遠投100メートル、50メートル6秒0と、高い身体能力を持ち合わせる。
さらに、187センチ・96キロと体格に恵まれたのは父・博信さん(53)のDNAを受け継いでいるのだろう。
■野球好きの祖父
宮城県出身で、今は関西学院大人間福祉学部の准教授(スポーツ文化論)を務める博信さんは、小さいころからスポーツが身近にあった。輝明の祖父にあたる勲さん(81)が自宅の庭に造った鉄棒と砂場で、懸垂や逆上がり、走り幅跳びをして遊んだ。勲さんは大の野球好きで近所に少年野球チームを設立。博信さんはそのチームに所属し、小学6年時には宮城球場(現楽天生命パーク宮城)で行われた県大会にエースとして出場したこともある。
「体が大きければ、何とかなる」
祖母の美智恵さん(81)はこう言って、食卓にたくさんの食事を並べた。運動と食事が血となり肉となり、博信さんは184センチと体格に恵まれた。中学から柔道に専念すると、仙台育英高時代は東北王者を2度獲得。日体大時代の1988年のチェコ国際大会では86キロ級で優勝するなど、同期の古賀稔彦(バルセロナ五輪金メダル)とともに、第一線で活躍した。
日体大を卒業した博信さんは、同大学で1年間助手を務めた後、教員として、大阪産業大へ就職。すると、赴任直後の91年4月に出場した講道館杯の86キロ級で優勝。一躍、翌92年バルセロナ五輪候補に浮上した。
日刊スポーツ(91年4月8日付)には、「大産大助手の佐藤、新星だ 涙の初優勝」との見出しで大きく取り上げられている。
「それでも、長くは続きませんでした」とは、博信さん。
「母校である村田第二小(宮城県村田町)は、東京、メキシコ五輪の重量挙げで金メダルを獲得した三宅義信さん、メキシコで銅メダルを獲得した義行さん兄弟の出身校ということもあり、なおさら地元からの期待を感じていました。しかし私は、五輪に向けて、100%の力を傾けることができなかった。現役引退後のことを考え、安定した教員の道を歩むつもりでいました。どこかで気持ちの糸が切れてしまっていたんです」
第二の人生を歩み始めた博信さんは99年3月、薬剤師である母・晶子さん(48)との間に、長男・輝明をもうけた。晶子さんも身長が170センチ弱だというから、体の大きな輝明は、母の遺伝子も受け継いだのだろう。
博信さんが柔道の日本代表合宿を訪れた際には、谷亮子さん(シドニー、アテネ五輪金メダル)に抱っこをしてもらったこともある。
「(輝明や次男、三男に)野球をやれと言ったことは一度もありませんでしたし、柔道をやらせるつもりもなかった。ただ、幼少期のころから宮城の実家に帰ると、父(勲さん)が自宅の庭や(敷地内にある)テニスコートで投げること、打つことといった野球の基本を一生懸命に教えていました。自然と、野球が身近な存在になった。今も野球を続けているのは、父の影響が大きかったと思います。私も野球が好きで一生懸命取り組みましたが、子供心にセンスがないなと思っていました。小学6年の時、父に『野球をやめて、柔道に専念する』と伝えました。父は、私が肩が強く、力もあるから野球をやっていけると思っていたようで、残念がっていましたね」