元ヤクルト鈴木康二朗 世界記録の756号を浴びた投手の意地「王さんに打たれて頑張れた」
鈴木康二朗(元ヤクルト投手)
WBCの日本の優勝に全国が熱狂したが、今から46年前の1977年も日本中がプロ野球の話題で大いに盛り上がった。
巨人の王貞治がハンク・アーロンの持つ通算本塁打の世界記録をまさに破ろうとしていたからである。
全国民が固唾をのんで見守る中、新記録となる通算756号が飛び出したのは9月3日、後楽園球場でのヤクルト戦の三回裏。マウンドには1メートル89センチの長身右腕、鈴木康二朗がいた。
鈴木は73年、茨城・磯原高から日本鉱業日立を経てドラフト5位でヤクルトに入団、スリークオーターから繰り出すストレートとシンカーを武器に現役14年間で81勝54敗52セーブ、防御率3.68を記録した。
77年は就任2年目の広岡達朗監督のもと2位に入って、翌78年の悲願の初優勝につなげた年であり、鈴木自身も初めてシーズンを通してローテーションの一角を守って、14勝をマークするなど手応えを感じていたシーズンだった。
王がアーロンと並ぶ755号を打ってから、王にとっても鈴木にとっても運命の日となる9月3日を迎えるまで2試合あった。しかし、緊張からか王に一発が出ない。当初から当日の先発を言い渡されていた鈴木は、内心、「何も俺の投げる日に当たらなくてもいいのに」と思いながらも、四球で逃げる気持ちはさらさらなく真っ向勝負をするつもりでマウンドに上がったという。試合前、捕手の八重樫幸雄ともシンカーで勝負しようと話し合っていた。