巨人元監督・藤田元司は大ケガを負った吉村の復帰に「一方が悪者になったままじゃいけない」と言った
藤田元司(巨人元監督)
その不幸な「事故」が起こったのは1988年7月6日、札幌円山球場の巨人—中日戦。八回、中日・中尾孝義の打球を追った左翼・吉村禎章と中堅・栄村忠広が交錯し、吉村が左ヒザの4本の靱帯のうち3本を断裂、神経までをも損傷する大ケガを負ったのだ。
吉村はすぐ渡米し、スポーツ医学の権威フランク・ジョーブ博士によって手術を受けた。しかし、ケガの状態は予想以上にひどく、博士が「スポーツ選手のケガでこれほどまでにひどいものは見たことがない」と驚いたほど。障害者認定を受けられるレベルだった。
1年間の厳しいリハビリに耐えた吉村が復帰したのは89年9月2日、東京ドームのヤクルト戦。「代打吉村」がコールされるとドームは敵も味方も関係のない温かい歓声と大きな拍手に包まれた。
その後の吉村は、かかとから足をついて歩けないというプロ野球選手としては致命的な後遺症を抱えながらも、90年にはリーグ優勝を決める劇的なサヨナラ本塁打を打つなど代打の切り札として98年に引退するまで17年間活躍。入団当初から天性の高い身体能力と卓越した打撃センスを持ち、ケガがなければ3000安打も夢ではなかったと言う人も少なくない。
吉村の復帰を応援し、温かく見守ったのが監督の藤田元司だ。藤田は長嶋茂雄の後を受け81年から83年まで指揮を執った後に退任、89年からは王貞治に代わって再び監督の座についていた。
藤田は現役時代、そのスマートな外見と慶大出身ということから「球界の紳士」と呼ばれていた。その一方で「瞬間湯沸かし器」のあだ名がつけられていたほど極めて短気な性格であり、怒ると手がつけられなかったが、基本的には他人を思いやる優しい人柄で多くの球界関係者から慕われた。