「アーベド・サラーマの人生のある一日」ネイサン・スロール著、宇丹貴代実訳
「アーベド・サラーマの人生のある一日」ネイサン・スロール著、宇丹貴代実訳
2012年、ヨルダン川西岸地区で交通事故が起きた。荒れ模様の朝、パレスチナ人の幼稚園児を乗せたスクールバスが18輪のセミトレーラーに衝突されて横転、炎上した。アーベド・サラーマの5歳の息子ミラードもバスに乗っていた。事故の知らせを聞いたアーベドは現場へ急ぐ。
必死に息子を捜すアーベドの長い一日を縦軸に据えたノンフィクション作品だが、時間はまっすぐには流れない。アーベドをはじめとする事故関係者の生い立ちや人生観、日常生活に踏み込んだかと思うと、時間を遡ってこの地域の複雑な歴史が語られる。分離壁、検問所、行動を制約するIDカード。イスラエルに占領支配されているパレスチナ人の困難な日常が、事故と無関係ではないことが徐々に浮かび上がってくる。
事故はイスラエル管轄下の道路で起きた。パレスチナの子どもが投石しようものなら、すぐさまイスラエル兵が現れるのに、このときは検問所の兵士も、近くにいた消防車も救急車も、燃え盛るバスを30分も放置した。そして子ども6人と教師1人が死亡した。著者の抑えた憤りが伝わってくる。
この作品は昨年、ピュリツァー賞を受賞した。著者はアメリカ生まれでエルサレム在住のジャーナリスト。訳者の「あとがき」によれば、著者のルーツはユダヤ人で、雑誌のインタビューに「イスラエルを批判するユダヤ人であること」の難しさを語っているという。
本作には、さまざまな人物が登場する。現場に最初に到着した救急救命士、九死に一生を得たバスの運転手、子どもを失って自分を責める母親、そういう妻に対して冷酷な夫。いくつもの人生の糸が交差し、からまり合って、歴史を背景にした大きな物語が編み上がっている。日々ニュースで目にするパレスチナ・イスラエル問題を深く知るためにまたとない一冊。トランプはこれを読んでいるだろうか。 (筑摩書房 2640円)