豊田自動織機(下)「次の道の発明」の目標は正しくも、達成は至難の業
だが、無難なスタートとはいえなかった。佐吉の先妻と後妻との人間関係が暗い影を落としたからだ。先妻は喜一郎を産んだが、発明に夢中の佐吉のもとを去り、実家に戻った。佐吉は後添いを迎え、愛子が生まれた。愛子の婿養子となった利三郎が豊田家の当主として実権を握った。
豊田家の嫡男・喜一郎と当主・利三郎は対立する。33(昭和8)年9月、喜一郎は織機内に自動車部を設置。豊田家の家督相続人で織機の社長でもあった利三郎が、これに猛反対した。
喜一郎に味方したのが従弟(佐吉の甥)の豊田英二(のちのトヨタ自動車工業5代目社長)と異母妹の愛子だった。愛子は夫の利三郎に初めて反旗を翻し、「お兄さまが自動車のために会社を潰したって、お父さまは満足されます」と言って賛成に回った。
すったもんだの末、自動車産業への進出を正式に決定した。37(昭和12)年8月、自動車部が独立してトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)となる。初代社長は利三郎。喜一郎が社長に就くのは41年のことだ。
トヨタは52年7月、喜一郎の嫡男、章一郎(のちの6代目社長)を取締役に据えた。これ以降、トヨタは喜一郎の家系が継承し、利三郎の系譜の人物がトヨタ自動車に入ることはなかった。