“オリンピックのサル”なる汚名が猿渡武嗣さんの死期早めた
ともあれ、猿渡はオリンピアンとして自負を抱き、意地を張った。“オリンピックのサル”の汚名を払拭するため、残業もいとわず深夜まで働いた。積極的に得意先の接待にも出向いた。上司や部下に対し、言葉よりも態度で示したのだ。
引退後の東京本社勤務時代から健康管理にとマラソンやジョギングを毎日欠かさなかったが、多忙のためいつしかやめてしまった……。
■詳細なメモを妻に
新日鉄室蘭に厚生課長の役職で赴任して3年目、82年7月20日。4日間の東京出張に出発する日の朝だ。妻の比都美に普段とは違う態度を見せた。いつもなら宿泊先や誰に会うかなど教えないばかりか、連絡もせずに会社からそのまま出張に出向く。後で妻に電話で伝えるのが当たり前だった。
ところが、その日はなぜか違った。宿泊するホテル名と電話番号、誰に会うかなどを詳細にメモして妻に手渡し、妻が運転する愛車で室蘭駅に向かったのだ。
そして、その日の午後に東京本社に着いた猿渡は、夜の会議に出席。前号で述べたように会議後は、久しぶりに会う同僚と好きなマージャンを楽しみ、ホテルにチェックインしたのは翌21日の明け方。人知れず息絶えた猿渡は、その昼すぎにホテル従業員に発見されたのだった。正直、夫の死を知らされたとき、妻はテレビのドッキリカメラのいたずらだと思ったという。