ハワイから来日したばかりの小錦に「横綱を目指せ」と言った“胸毛の横綱”の眼力
■外国人力士が色めがねで見られた時代に…
入門当時の小錦は184センチ、175キロ。重心も低い見事な体格とはいえ相撲経験がなく、ハワイから来たばかりの18歳の青年に、師匠はいきなり明治時代の横綱「小錦八十吉」のしこ名を付け、「横綱を目指せ」と言った。
ハワイの先人、高見山のしこ名も優勝制度ができて最初の優勝力士、高見山酉之助から、4代目高砂親方(元横綱前田山)が初土俵の翌場所に付けた。外国人力士が今より濃い色めがねで見られた時代に、師匠たちの眼力と決意を思う。
小錦はたちまち番付を駆け上がり、84年秋場所には千代の富士、隆の里の両横綱を破って「黒船襲来」と騒がれたが、けがと体重増が影を落とす。十両時代に足首のねんざで休場した時から、けがー治療中の稽古不足ー体重増ー復調ーけが……を繰り返すようになった。
それでも苦難を乗り越えて87年夏場所後に大関へ昇進したが、5代目高砂親方は翌年10月に脳出血で倒れ、小錦の優勝を見ずに亡くなった。