焼肉店経営の旭道山和泰 モンゴル横綱誕生の立役者だった
「甘やかしたツケが回ってきた。6人は親方のいうことも聞かなくなったんです。困り果てた親方はおまえが面倒を見ろ、と6人を自分に預けました」
旭道山さんは日本の若者と分け隔てせず接した。稽古場では容赦なく転がし、日本の習慣、礼儀についても厳しく指導した。
「突然、教育方針が変わり、それまで親方がお客さん扱いしてくれてたことがわかり、大きなショックを受けたようです。おまけに、それまでただのデブだとバカにしてた兄弟子がものすごくタフで強い。とんでもないところに来てしまったと大慌てし、英語の都内地図でモンゴル大使館を探し当て、示し合わせて逃げ込んだんです」
逃げずに残ったのは元幕下の旭天山だけ。その後、旭鷲山、旭天鵬が部屋に戻った。
「日本とモンゴルの国際問題にまで発展しかねない。大島部屋は非難の集中砲火を浴び、親方もいたたまれなかったと思います。だけど、めげずに3人を育てたからこそ、朝青龍や白鵬が続き、モンゴル人力士によるジャパニーズドリームが生まれたんです」