KKドラフトのシナリオは二頭取りだった
1985年、PL学園の桑田・清原の指名を巡るドラフトは各方面に多大な影響を与えた。清原1位指名だったはずの巨人が、土壇場で早大進学表明の桑田を単独1位指名。桑田は前言を撤回し巨人入り。6球団から指名を受けた清原との入団交渉権を得たのは西武だったが、清原は会見で涙を見せた。直後から「疑惑」「密約」の活字がマスコミを賑わせた。巨人の内部では一体、何があったのか。当時、広報部長だった若林敏夫氏が振り返る。
「二頭取りだったんですよ」
1985年11月20日のドラフト会議からしばらくして、巨人の若林敏夫広報部長は伊藤菊雄スカウト(当時)からこう言われた。
同年のドラフトの目玉はPL学園の桑田真澄と清原和博。投打の中心としてともに甲子園で活躍。清原は早くからプロ志望を表明していたが、桑田は早大進学を公にしていた。
巨人は王監督(当時)がドラフト前日に「1位は清原でいく」と報道陣に話していた。それがいざフタを開けると、巨人は桑田を単独1位指名した。マスコミと世間は「巨人と桑田は密約を結んでいた」「またドラフト破り」と大騒ぎとなった。