岡田彰布「六大学三冠王」の礎を築いた小石特訓 元早大監督・石山建一氏が明かす
石山建一氏(元早大監督)
岡田彰布を初めて見たのは、北陽(大阪)の3年生として早大の練習会に来たときです。リストが物凄く柔らかく、ライナーで左翼へ柵越えを連発。ひと目見て惚れ込みました。
高校では外野と投手をやっているということでしたが、三塁手の松本(匡史=元巨人)が卒業するので後釜にしたいと。ただ、当時の早大はスポーツ推薦枠がなかった。入試を突破してもらうしかなかったのですが、岡田は家庭教師を5人も付けて猛勉強。無事、教育学部に入学が決まり、「これからはバットで行くぞ。六大学の打率、本塁打数の記録を塗り替えろ」とハッパをかけました。
岡田はハートも強かった。私は選手の能力を測るとき、素材とハートを重視します。毎日、コツコツと練習して、努力する気持ちがあるのかどうか。岡田が1年生だった夏の軽井沢合宿では、主将の1人部屋に入れて、寝泊まりさせた。あとの部員は大部屋に30人で雑魚寝ですから特別扱いです。
■「1億円もろうても軽井沢は堪忍」
後に「1億円もろうても軽井沢だけは堪忍ですわ」と苦笑いを浮かべた岡田は合宿の40日間、ほぼ休みなく、午前中だけで400~500本のノックを受けた。日替わりで合宿に手伝いに来てくれた卒業生に私が「あの1年坊主、凄い選手になるから覚えておけよ」とPRするものだから、「じゃあ、私がノックを」と、みんなからノックを受けるハメに(笑)。
それでも岡田は一切、音を上げませんでした。午前の練習後のグラウンド整備は1年生の仕事。午前中に何百本もノックを受ければグッタリです。2週間で14キロも痩せたそうですけど、岡田はきびきびとグラウンドに向かい、トンボをかける。コッテリ絞られても、愚痴も泣き言も言わない。ハートも合格。1年秋のリーグ戦から左翼のレギュラーに起用しました。
打撃については、内角球を打てるよう特訓をしました。5~6メートルの距離から岡田の顔をめがけて小石を投げる。岡田は脇を締めてバットを縦に構え、ハエを払うように小石を上から叩くわけです。
脇が開いてしまうと、バットが遠回りしてドアスイングになる。これでは内角球に対応できません。こうして3年秋にはリーグ三冠王を取るまでになりました。
ちなみに、阪神のドラフト1位の森下選手がバットを立てて構え、脇を締めて打つようになったでしょ? 森下選手はもともとバットを寝かせて右肘を上げて打っていました。岡田ともそのことに関してやりとりをしましたが、バットを立て、前の脇を締めて打つことで、振り遅れず、内角にも対応できるようになってほしい、というわけです。
話を戻しますと、私は岡田が三冠王を取って優勝した1978年に監督を退任、プリンスホテルへ移籍しました。私の手から離れたわけですが、岡田は79年ドラフトで6球団競合の末に阪神入りしました。4年時は毎晩のようにプロのスカウトにお座敷に呼ばれ、接待攻勢を受けたそうです。銀座や六本木のクラブ、料亭……。岡田は「監督がいたら4年時はもっと本塁打を打てましたよ。監督が目を光らせているのに夜遊びなんて、できませんから」と言ってました。今となっては笑い話です。