人形町今半 髙岡慎一郎社長(3)大卒後OA機器の営業マンに 月100時間の残業になる時も
「人形町今半」社長の髙岡慎一郎は、玉川学園高等部1年の時「骨肉腫」と診断され、片足の切断を覚悟した。
しかし、幸いにも名医に巡り合い、手術はしたが片足の切断は免れ、療養とリハビリで完治した。ただ、高等部の1年生を2回経験することになった。髙岡が普通の15歳と違ったのは、留年したことを気にすることなく、むしろ「新しく入学してきた同級生に先輩として教えてあげて楽しかった」と前向きだったことだ。
髙岡はそのままエスカレーターで玉川大学文学部に進学。大学ではアーチェリーに熱中した。
1983年3月、大学卒業後は、すかいらーくグループのジョナサンへの入社が決まっていた。だが「これからコンピューターの時代が来る」と考え、OA(オフィス・オートメーション)の日本電気系のワイ・デー・ケー(YDK)という中小企業に入社した。
入社後1カ月で田町の日本電気に出向した。仕事は3000万円もするオフィスコンピューターの販売営業だった。上司から中小企業(品川区、大田区)数百社の分厚い名簿を渡された。