親族が語る生い立ち秘話…本田圭佑の「虚像」と「実像」
大阪市中心部から北東に約12キロ。関西を代表する1級河川・淀川と近畿自動車道が交差する摂津市にある、大阪モノレール・南摂津駅から歩いて数分、小さな工場が点在する地域に今も本田の生家はある。
昭和初期までこの周辺は湿地帯だった。その名残だろう。川幅2メートルほどのドブ川が幾筋も流れ、生家の四方を取り囲んでいる。深緑色の濁水が音も立てず緩やかに、そして不気味に流れていく。その様相は、今も昔も変わっていない。
昭和30年代に建てられた木造2階建て。同じ間取りの長屋風の家屋がひしめき合う。敷地は20坪あまり。1階は4畳一間と台所だけ。2階も6畳和室と小さなベランダしかない。本田は中学卒業まで、家族と肩を寄せ合いながらここで暮らしていた。
「この狭い家に圭佑を含め、6、7人が一緒に暮らしてたんやからな。そりゃ、昔は大変やったよ」
本田の育ての親である祖母・晶子さん(80)は自嘲気味にこう笑う。一家は本田の幼少期から裕福ではなかった。本田の実父・司さんは若い頃から仕事が長続きせず、それでいて野心家だった。本田が小学校に上がる頃は、外国からマツタケなどの野菜を輸入する卸業が軌道に乗っていたようだが、いつも会社を起こしては潰すの繰り返し。生活は常に不安定で、家庭を顧みることも少なかった。