可能性があったはず…「縦隔腫瘍」だった若者をいまも思い出す
そして、がんは再び大きくなり、追加の抗がん剤治療もできずにFさんは2週間後に亡くなりました。勝算あり、治せるのではないかと考えていたのに、どんなことがあっても頑張りたかったのに……残念な思いでした。
遠方から上京し、泊まり込んでいたFさんの父親は、医師から説明を受けた後にご遺体とともに淡々と帰って行かれました。やはり覚悟を決めていたのでしょう。
後日、胸部外科、放射線治療科、病理科などが集まっての合同カンファレンスがありました。標準的な治療などはない時代です。この例に対して、誰も発言はありませんでした。
Fさんが亡くなってからおよそ1カ月経って、父親が「もう一度、経過を聞いておきたい」と私を訪ねて来られました。
1時間ほどこちらの説明を聞いた後、「分かりました。自分が息子と代わってやりたかった」と漏らされました。無念でした。
私は父親と一緒にエレベーターを降りて、玄関まで見送りました。姿勢よく、毅然として去っていく後ろ姿がずっと忘れられません。