ある認知症の女性は「主役体験」によって徘徊しなくなった
ところが婦佐さんは「独りぼっちだから」とつぶやくようになり、玄関に「帰らせていただきます」と置き手紙を残して出ていくようになった。
やがて地元でも有名な「徘徊老人」になるのだが、やさしい家族に囲まれながら、なぜ家を出たがるのだろうか。
当時、婦佐さんはこんな手記を書いている。
〈物忘れがひどく、自分ながら、これからどうなるかと心配でたまらない様な毎日が続いていました。(略)物忘れが気にかかり、夜はおそくなるまで眠れませんでした。私はもうこれで何も出来なくなるのかと悲しく、夜になると涙が流れて困ってしまいました〉
自分が何者で、なぜここに存在しているかが分かるのも記憶があるからだ。記憶が消えていくと、自己の存在が消えていくような不安におそわれる。そんな彼女を支えていたのが炊事だった。
家族は親切のつもりで炊事を引き受けたのだが、婦佐さんは生き甲斐だった炊事を取り上げられたと受け止めたらしく、「ここは自分の居場所ではない、帰ります」と出ていくようになったのである。