人形町今半 髙岡慎一郎社長(1)「舌を鍛えるため」子どもの頃から父親が一流レストランに
2代目・髙岡耕治が1912(大正元)年に遠縁にあたる相澤半太郎と共同経営で浅草雷門で「今半」を開店、大衆化路線の「牛鍋屋」から高級化路線の「すき焼き屋」へ業態転換した。
髙岡耕治は1928(昭和3)年、浅草雷門の「今半」から分離独立、「今半 国際通り本店」(現・浅草今半)を開店した。長男の元一が「今半」を継いだ。元一の次男の陞が1952年に「今半 人形町支店」(1956年に分離独立。現在の人形町今半)を経営した。
陞の長男が、現社長の髙岡慎一郎である。髙岡は1958年11月6日生まれ、64歳。2人兄弟の長男である。東京・四谷出身、杉並育ちだ。母が35歳の時「人形町今半」の初の支店となった有楽町店の店長を務めた。髙岡は幼少時代から弟と一緒に、仕事をする母と、17歳の時に集団就職で東京に来た住み込みのお手伝いさんに育てられた。
「食事に常に気を使ってくれた母は、店と自宅を毎日2往復して我々の夕ご飯の用意をし、それをお手伝いさんが仕上げてくれていました」という。
「父は私と弟をホテルや一流レストランによく連れていってくれました。父は『一流のシェフやコックの作る料理を食べさせて早くから舌を鍛えるためだ』と言っていました。私は子どもの頃から人形町今半の跡取りだと言われて大切に育てられました。そのため自分で決め周りを動かすことはあまりなく、内気で人見知りでしたが、困っている人を見るとじっとしていられない性格でした」
髙岡は小学校、中学校は公立に通った。自分の意見や個性を強く出すことはなく目立たないタイプだった。そんな髙岡のことを心配し、母は「全人教育」で知られる玉川学園高等部に入学させた。 =つづく
(外食ジャーナリスト・中村芳平)